2005年 7月 キャプテン杯 決勝 2番ホールのドライバー

Birth 450 TRUST 気まぐれ競技参戦記

【ミッシングリンク】 – 2005年 7月 キャプテン杯

病床は長く死期が近い。地位も財産も築けなかったが、まあまあの一生だった。
なにより私の人生にはゴルフがあった。
あれは、いいショットだった。・・・・冥土の土産にもう少し思い出すとするか。生涯最高のショット、ショット・オブ・ザ・ライフ を。

2005年 7月 キャプテン杯 決勝ラウンド 2番ホールの ドライバーショット

この頃の私は、パブリックのHC8。クラブ外の試合では自分なりに健闘するものの、ホームコースの競技では全く良いスコアが出ず。かといってクラブハンディキャプが未だ10のため、下位にも行かない「中盤の帝王」であった。昨年のJGA方式へのHCシステムの切り替えに伴って、一応クラブのハンディキャプも9になったものの、どうもすっきりしないシングル入り。当時は4大競技の内、スクラッチとクラブチャンピョンシップの参加資格はHC9からだった。研修会に出席していない私としては、4月の理事長杯か7月のキャプテン杯に勝って、ちゃんとした?シングルと認められた上で、クラチャンに出場したい。

この年2005年も予選の順位は7位か8位だった。16人通しで最後から2つ目の組、いつも通りのポジション。
1番で右の「ダボ谷」に落とし、8を打った。 今回こそ勝って、晴れてホームコースでもシングル入りを果たしたかったが、またもダメか。

「あ、8じゃなく、9でした。」

と、2番のティーグランドで私はマーカーの Oさんに告げた。フェアウェイに戻した後、チョロした一打を数え忘れていたのだ。

決勝は1.5ラウンド27ホール、難しいアウトを2回。その最初のホールで9を打ってしまった。現時点で暫定16位? やはり、今回もダメか。落胆したまま2番ホールのテーショットを何気なくドライバーで打った。

次の瞬間全身がゾクっと震え、私は我に返った。一瞬、何が起こったのか分からなかった。

真芯を食った当たりは手ごたえを残さないとプロは言う。私にはこのドライブの、筋肉を動かした感触・インパクトの衝撃・打球音すら記憶がない。今、体に残っているのは恍惚感だけだ。無想無念・無我無欲・没我・没入。何も残さない。こんなにも純粋な、ピュアなドライブ。こんな感覚は初めてだ。

フェアウェイセンター方向に飛び出した打球は、今まで見たことのない高さまで昇っていく。
鉛色の空の、厚く連なる雲海に少さなスキマがあり、そこだけ晴れ間が見えていた。ボールはちょうどこの穴に吸い込まれるように見えなくなった。
ボールが消えた刹那、その小さな穴の周りが光って見えた。

今考えると、これがゾーンへの入り口だったのかもしれない。

そのドライブは驚くほどの飛距離が出ていた。ここから私は残り17ホールをパープレイで回り、15人をゴボウ抜き。1ラウンド終了時点で暫定トップに立った。

アウト2ラウンド目に入ってもゾーンの余震は続いた。

今朝9打を打った1番パー5。やや左に飛んだティーショットは、打ち上げ250ヤード先の左ラフを飛び越え、さらに山を駆け上がってOB。いままで届いたことの無い場所だった。
ドライバーで打ち直し、セカンドはグリーン手前40ヤード。ここからチップインしてOBイーグルのパー。10年以上このクラブのメンバーだが、ここでイーグルを取った事は一度もない。

2番から8番までは3オーバー、そして最終ホールはアウトで2番目に難しい9番。やや左に飛んだテーショットは、いつも捕まるバンカーの、左横カート道を30ヤードも飛び越え、さらに山の中腹まで駆け上がってまさかのOB。ここは、セカンドを引っかけた時入るOBゾーン、ティーからは打ち上げで280ヤード以上、私の飛距離ではあり得ない場所だ。

ゾーンの余震は最後まで続き、このホールは セカンドが乗って、ワンパットのボギー。9番ホールは430ヤードだが、たらたら打上げでプレイングディスタンスは長く、ここをバーディにしたのも10年で数回しかない。結局1.5ラウンド目は、OB2発の40でまとめ、1打差で私の優勝となった。

同伴競技者のOさんが2位になったのだが、スコアを数えていたら、大変なストレスだったろう。1番で私がOBを打って逆転かと思ったら、チップインしてOBイーグルのパー、最終の難関9番ホールでもOB(この時点では、Oさんがリード)打ち直しから200ヤード以上を乗せてワンパットのボギーなんだから。

朝の1番ホールの正直プレーにゴルフの女神がご褒美をくれたってことかな。

私は中盤の帝王を返上、4大競技に勝ち、初めて金看板を挙げた。

ホームコースのHCが8になった。


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