- 【ミッシングリンク】ホテル カリフォルニア 2017年
- Y さん 「まあ、それも含めて、私のストーリーの一部だったということです。」
- あれ、そう言えばナゼ私は米国で Tennis-tat でなく、Golftat になったんだろう。
- その天国には、なぜか私しか居なかった。
- 私がこの場に居てはならない、というような、強烈な不思議な違和感。何だ、これは。
- でも私は2度とゴルフには戻らない。私はホテルカリフォルニアを脱出したのだ。
- 最後の相手は、トーナメントの優勝候補とも思えるコーチレベルの選手だった。
- 鏡に映る自分の醜さと、居場所にならないテニスが、辛くて、悲しくて、寂しくて、そして情けなくて。
- そして私は、ミッドウェストの気まぐれな風に吹かれ、乾いた赤土にへばりつくバミューダ芝の上に、自分の居場所を見つけたのだった。
【ミッシングリンク】ホテル カリフォルニア 2017年
ゴルフは ホテル カリフォルニアだと人は言う。
You can check out anytime you like, but you can never leave.
確かに。
ゴルフには中毒性があり、一度のめり込んでしまうと多くの場合一生の趣味となる。
特に競技ゴルフ。こそこの成績が出るくらい競技にのめりこみながら、病気や事故、年齢含む身体的制限または経済的理由以外の理由で、自主的にゴルフを辞める人。自らの意思でゴルフを辞めた、否、辞めることが出来た人を私は知らない。多分、皆さんの周りにも居ないのではないか。
一度チェックインしたら決して離れられない ホテル カリフォルニア。
2018年5月 月例Aクラス。
いつもは地元メンバーで一組となり月例に参加するTat。今回は2名だったため、4大競技に出場していた頃から顔見知りの Yさん、Iさんと同組となった。昼食時の会話。
Y さん 「まあ、それも含めて、私のストーリーの一部だったということです。」
と、昨年度初めてクラチャンを制したYさんが言った。
Iさん 「たしかに、Tatさんが、Kさんを倒したことが大きい。」
Tat「大金星だけど最近の私の実力から言って、完全にまぐれだった。あの日だけ私にゴルフの天使が舞い降りた。」
Iさん「次週のKSさんには、ぼろ負けだったとか。」
Tat「歴史的大敗だと思いますよ。えーと、十三 アンド 十二 だったかな。 英語で言わないダウン数って、初めてだよ。」
・・・・・
クラブチャンピョン杯でKさんに対し奇跡の大金星を挙げた1か月後、2017年の終わり。引きこもりがちな息子をテニススクールの体験に連れて行った。しかし、その後スクールに熱心に通いだしたのは、息子ではなく私だった。
高校生のころ、私のヒーローはマッケンローだった。憧れのテニス、テニスがしたいと渇望した10代。受験。志望の公立校不合格。中途半端な大学の同好会。大学中退。ソフトウェアハウスに入社し、親会社の実業団テニス部に入部。長年の望みが叶い、やっと本格的なテニス。海外勤務の希望は聞き入れられず、退社。米国の大学に編入。卒業。そして、家庭の事情で帰国。テニスは私に、若かりし日々のほろ苦い思い出を蘇えらせる。
ところで25年前、日本に帰って来た後、私はなぜテニスをしなかったのだろう。
あんなに憧れ、熱中したテニス。やっぱり、今でも楽しいじゃないか。あの頃のまま、私はテニスが大好きなんだ。
あれ、そう言えばナゼ私は米国で Tennis-tat でなく、Golftat になったんだろう。
・・・・・
Tat「ところで皆さん。どーでもいいんですけど、」
Y, I, S 「はい?」
Tat「私、引退します。」
Y, I, S 「は?」
Tat「引退してテニスします。」
Y 「それはどういうネタですか?」
関西人は、オモロくないネタは許せない。
Y 「これから錦織を目指す?」
Tat「錦織にはなれないかもしれないけど、・・・・」
インタークラブ競技の選手の皆さんにナゼこんな事を言ってしまったのかわからない。この頃には月例競技の時しかゴルフ場に行かなくなった私を今でも仲間に入れてくれ、真剣に競技ゴルフに取り組む皆さんには如何にも失礼な言葉だった。何となく、自分に区切りをつけたかったのかもしれない。
「焼けぼっくりに火」がついた私は、急激にゴルフに興味を失い、テニスに耽り始めた。
28年ぶりのテニス。スクールでは意外と打てるショットも、昔より打てないと感じるショットもあった。港の人気のない倉庫を探し出し、毎朝壁打ちをした。サーブ、ボレー、ストロークは、トップスピン、スライス、フラットの強打。練習課題は無限にある。スマホでビデオを撮りながらソニーのスマートテニスセンサーを使い、フォーム、球速、スピンをチェックする。休みの日には一日に3回壁打ちに通ったこともあった。一日1000ショット打つこともしばしばだった。私はこんなにもテニスが好きだったのだ。
気候が良くて風の無い日、壁に向かって自分の打ちたいショットを好きなだけ打った。そんな時、自分が天国に居るような気がした。
その天国には、なぜか私しか居なかった。
再開して2か月後、私は無謀にも、この地区の有力選手が参加するオープンシングルスに出場した。懐かしいトーナメントの緊張感。私はコートに戻ってきたのだ。
この頃のスクールは、未だ息子の隣のコートでファミリークラス。私はこの大会で他の選手の打つフォアハンドを音を聞いて驚いた。ゴルフと同様、テニスもこの28年で大きく様変わりしていた。トップスピンなのに擦るような感じではなく、バン!というフラットサーブのような音で、すごいスピードと、バウンド後の跳ね。ポリガットの登場により、アマでも強力なトップスピンをかけられる様になり、その結果強打してもコートに収めることができるようになったのだ。
私は、仮免許の初めての路上教習許で、高速道路に入った初心者ドライバーのように混乱し、恐怖し、全くなすすべなく負つづけた。1セットの4試合をして、私が取れたのは合計で数ゲームだった。
まあ試合に惨敗したのは、年も年だし、(テニスは35歳から「壮年」だ。)予想出来たことだった。しかし、それとは別に、何か言うに言われぬ不思議な違和感を感じた。
私がこの場に居てはならない、というような、強烈な不思議な違和感。何だ、これは。
28年ぶりに再開したテニスはなかなか障害が高かった。
初めてすぐに膝が悲鳴を上げ、1か月中断。3月に肉離れを起こし、1か月ほとんど歩けなかった。テニスレッグというやつで、「ふくらはぎをバットで叩かれたような痛み」とよく言われる。全くその通りで、私は本当に隣のコートのボールが右のふくらはぎに当たったかと思った。28年前より12キロ増えて80キロになった体重を支えるには、ゴルフ用に細々と行ってきた下半身トレーニングでは不足だった。5月、7月にも肉離れを起こし、回復に数週間かかった。ゴルフの練習場通いは辞め、毎朝 壁打ちを続けた。
8月に不思議な事が起きた。ホームコースの月例Aクラスで優勝したのだ。よく考えてみたら、月例の優勝は10数年ぶりだ。スコア74も、バックティーからは過去最高タイスコアではないか。定期的な練習はせず、この年ゴルフ場に来たのは、たしか5回目だった。この日は酷暑日で、皆、ダレ気味だったので、暑さに対する耐性と体力をテニスで鍛えられた私は優位だったようだ。
HCは7年前から7のままだが、今の実力は平均スコア90、HCなら17くらい、間違えなく今までで最も期待の低い競技での勝利。引退を決めた私を、意地悪なゴルフの女神が振り向かせようとしたに違いない。
でも私は2度とゴルフには戻らない。私はホテルカリフォルニアを脱出したのだ。
再開し約1年後の11月、再び、件のオープンシングルスに出場した。体重は10キロ落ち、スクールは上級クラスになっていた。随分熱心に練習したつもりだったが、結果は2月と同じようなものだった。
2019年に入ると、息子の受験と、母の病床悪化により、ますます自分の時間は少なくなった。ゴルフはほぼ止めて、テニスを優先した。そのテニスもコートで打てるのは、スクールでの週1回だけ。それでも私は来る日も来る日も毎朝 壁打ちを続けた。氷点下の朝は、息が切れるまで全力で強打を続けても手先がかじかむ。夏の練習後は濡れ雑巾のようにTシャツの汗が絞れた。コートに行けなくても、ただの壁打ちでも、たった一人でも、テニスボールを打っていれば私は幸せだった。私はこんなにもテニスが好きだったのだ。
ゴルフを離れ、テニスを再開して早や約2年が過ぎた。スマートテニスセンサーによると、私は、たった2年で30万ショットも打っている。フォアハンドのスピンはレベル6になり、サーブは140kmを超えた。
11月、再び、オープンシングルスに挑戦した。しかし、またもや合計4試合の結果は、最初に参加した時と同じようなものだった。
最後の相手は、トーナメントの優勝候補とも思えるコーチレベルの選手だった。
私に対しては、それまでのゲームとは違い、サーブからストロークまで、あからさまに緩いボールを打って来る。屈辱的な状況なのだが、彼にしてみれば体力温存と、まともに打っては試合にならず可哀そうということなのだろう。むしろ、その程度のレベルで参加している私の方が迷惑をかけていると言えた。それでも私は手加減して打ってくる彼のボールに、全くついていけない。
試合が進み、スピンサーブにラケットを跳ねられ、オープンコートに打ち込まれるストロークを追ってあえぎながら、私には分かり始めた。あの、最初のトーナメントで感じた、私がこの場に居てはならない、というような強烈で不思議な違和感の正体が。
28年前、実業団テニス部の頃。月水金の練習、土日は壁打ちと素振りをした。でも私はテニスが上手くならなかった。リーグ戦の選手に選ばれなかった。反射神経が鈍く、ボレーがヘタだった。投球モーションが悪く、サーブの打点が低かった。切り返しが遅く、コートカバーが狭かった。太っていて、足が遅かった。背が低く、リーチが短かった。スタミナがなく、集中力が続かず、プレッシャーがかかる場面で決ってミスをした。知識はあるのに、楽しみを優先し、基礎練習を怠った。テニス部の先輩方と、うまく人間関係を築けなかった。大体、カッコいいテニスは、カッコ悪い私に似合わなかった。
テニスはガマの油を搾る鏡のように、容赦なく私の至らなさ、欠点、醜さを映し出す。ダメ、ダメ、ダメ、私の悪いところ、否定形全部。
こんなに頑張っているのに、こんなに好きなのに、ここはお前の居る世界では無いと言わんばかりに、テニスは私を受け入れてくれない。
鏡に映る自分の醜さと、居場所にならないテニスが、辛くて、悲しくて、寂しくて、そして情けなくて。
思えばテニスはダメな私、なれない自分の象徴だった。
テニスだけでなく、私はいろいろとダメな人間だった。ダメな自分を変えたくて、新しい自分になりたくて。
25歳の時、一生で一番頑張った。日本でTOEFLを取り、一人で米国の大学に編入手続きをした。
要らないモノは何もかも捨て、変えたいコトは全て忘れた。手紙と写真と日記を全て焼いた。
3日分の着替えだけをボストンバックに詰め、知っている人の一人も居ないアメリカに飛んだ。
今、はっきりと思い出した。私はこの時、ラケットとテニスへの思いを、日本に置いていったのだった。
そして私は、ミッドウェストの気まぐれな風に吹かれ、乾いた赤土にへばりつくバミューダ芝の上に、自分の居場所を見つけたのだった。
28年の年月を経て、封印されたテニスへの思いは、発酵し熟成され、苦く悲しいことは、一つ残らず解けて蒸散し、ダイアモンドのような場面だけが甘く美しい記憶として残っていた。私は2年間、幻を愛したのだ。
・・・
クラチャンで36ホールのマッチプレイを戦うほどのめり込みながら、ゴルフから離れることが出来る人はいない。
最後のポイント。鋭いスライスサーブはエースとなり、私は、0 – 6で負けた。
「ありがとうございました。」
ネットを挟んで握手をする私の表情は、なぜか晴れ晴れとしていて、彼はキョトンとした。
頭の中で ホテルカリフォルニアが流れていた。
You can check out anytime you like, but you can never leave.
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